Who am I ?

Loss of Senses When being

今日感じたこと。

過剰さが人を窮屈にさせる。どれだけ余分なものから、引けるか。

 

パフォーマンスが一番いい状態に置くことが、要求される日々。

 

なかなか聖なる人みたいで、それもまたストイック。

 

まるで、中高の受験生みたいな生活になる。

 

はてまた。

 

そんなにストイックが好きなのか。

放擲された孤

好きな言葉がある

 

『バガヴァット・ギーター』神に人の苦悩は理解できるのか(赤松明彦 著)に下記内容がある。ガンディー自叙伝から抜粋された箇所である。

 

 

 人間の苦悩とは、本来そうであるべきことが現実にそうでないとの認識のうちに生まれてくるものであろうが、その時「まだない」と考えるか、「もはやない」と考えるかによって、苦悩のあり様も、またその解決方法もずいぶん異なったものになってくる。

 

「まだない」と考えるものは、解決法の実現に向けて行動すればよい、ただそれだけのことである。

 

 

「まだない」ことは先行き不安である一方、「もはやない」場合は喪失であろうか。

喪失については、生けるものに生じる負の感情である。

「まだない」については、溢れるばかりの情報や手立てがある。しかし一方、「もはやない」ことに対し、手立ては少ないように思える。私見だが。「もはやない」とは、放擲された孤、と考える。つまり、見放された、唯一人が抱え込むものへ変遷され、存在自体を脅かすものとなる。なるかどうかは、多様な条件に差異がある為、断言できない。村上春樹の著作を読むと、なぜか後者の状況が垣間見え、最果タヒの詩にも、その含有性を感じとることができる。これも、これも、私見にすぎないけれど。

 

 

唯、かつて友人との話の中で、「村上春樹は孤独を知っているよね」と。

そう、彼の作品、特に初期は、孤独という色が映し出されている。そう思うのは私だけではなかった、と感慨深い。

 

 

最果タヒの作品にも、綺麗なきれいものが打ち壊してしまい、言葉をバラバラにし、意味を崩壊させている。その言葉を言葉遊びのレベルとして表現できる唯一の作家かもしれない。彼女の作品にも、孤独が影を落としていることは、否定できない。

 

 

放擲された孤。世に告ぐ。

 

 

 

書評

中田考先生の書評です。

短いですが、読み応えがあるので、盛り上がりました。

来週、京都に来られて講演予定です。



獰猛なる「見える化」と統計学超自我アルゴリズム化の誘惑 | 数えられなかった羊

獰猛なる「見える化」と統計学的超自我、アルゴリズム化の誘惑 | 数えられなかった羊


限れたもの

緊張の高まりとリミット設定された時間が訪れると、すぐにアウトしたくなる。

誰かと共有したい気持ちなるものが、存在しているのだろう。

多忙さ故、少しでもいいから綴りたくなる。

 

今年度は大学にて、宗教学会が開催される。心理、宗教、哲学にまつわる1000人規模の学会。早速学長から、今年のメインを講義中に教えて頂いた。

興味ある方は来て下さい。私は、お手伝いになるのかな? 学部の時ですら、タイムキーパーにかりだされたから、、、、それで、聞きたい発表が聞けなかったな、、、、

9月は東洋大で印仏学会。病跡学は慶応。今年の、精神医学史学会は関西かな?これも友人に確認しておこう。

 

文献読みからスイッチイング。これからいざ出発。少し社会人モードへ。

僅なモラトリアム

Twilight

 

今日は講義2コマ終え、友人とたわいもない場を過ごした。

 

ゼミのいつも通りのスタイルは好き。

 

僅な空間に身を委ねていれば、すでに明け方。

 

そろそろ、少しの社会人に戻る時間へシフト。思うようにいかないもどかしさもありつつ。

 

僅なモラトリアムは、空間であること。時間は介在しない。

 

コーヒーを飲んでから、少し休みますか。。。。

 

 

Chapter I <自由への選択>

 

人間は何処かに気持ちをアウトプットしたくなる。

 

フェイスブックでもなく、ツイッターでもない、その中間程のスペースが欲しい。

どちらにも属さない分量と読み手が選択できる場。それがブログだと気づいた。このスペースを作成した理由は、唯それだけ。だから、読みたい人が自由に読んで下さればいい。

理由がある。見たくないものが世の中には溢れているから。それは否応なしに、私に見せつけられる存在として。その存在は、必要とされる存在をも打ち消すものとなり得る程、強烈に。かつて、とある教授の講演にて、「見たくないものは見なくていい。見るからそれを面白いって、作成者は過熱する。それが倫理に反していようとも。」と語ったことがあった。そこに入り来なければ、その世界には加担しない。そして知り得ないものは、知り得ないものとして、通過することができる。

 

幾分気難しくなってしまったが、日々感じることを綴るのみの場として。

 

綴っている間も惜しいくらいに、タスクは膨大だが、人間には隙間時間も必要。院生と社会人を少ししながら、どれだけの研究ができるだろうか、と不安しかないが。選択の連続性に覚悟を決めて。両親は既に呆れているが(名前を難しくし過ぎたことが、原因だと思っている)、私自身ここまで来てしまい、腹を括るしかないかな、と思った。10年前には想像もしなかった世界まで。そしてその方向性を幾ら考えても結果はないことにも。

 

私が、つい弱音を吐いてしまい、「もうダメかもしれないです」と話した矢先、教授からは「もうこのまま進め」と助言。「数年は大変かもしれないけれど、先を考えれば選択は広がる。」

頑張れとは言わない。「進め」と。

 

どうあろうとも、進むことが私には適しているようだ、と何となく思いながら。

このまま隙間時間に綴りながら、生きている限りは、これが運命ではなく、宿命だと思いながら。

 

多忙な日々だが、本棚に目がとまり、

『人間と機械のあいだ』心はどこにあるのか(池上高史+石黒浩 著)をパラっとめくった。手軽さと読みやすさ、人文からのアプローチとは違う感覚に、新鮮さと発見がある。たまにパラっとめくる。その時に目を引いた箇所が、今の自分とリンクする何かがあると、常々思っている。

 

今日の主題から話しが逸れてしまったが、これから様々な感情の連鎖となるだろう。