Who am I ?

Loss of Senses When being

Chapter I <自由への選択>

 

人間は何処かに気持ちをアウトプットしたくなる。

 

フェイスブックでもなく、ツイッターでもない、その中間程のスペースが欲しい。

どちらにも属さない分量と読み手が選択できる場。それがブログだと気づいた。このスペースを作成した理由は、唯それだけ。だから、読みたい人が自由に読んで下さればいい。

理由がある。見たくないものが世の中には溢れているから。それは否応なしに、私に見せつけられる存在として。その存在は、必要とされる存在をも打ち消すものとなり得る程、強烈に。かつて、とある教授の講演にて、「見たくないものは見なくていい。見るからそれを面白いって、作成者は過熱する。それが倫理に反していようとも。」と語ったことがあった。そこに入り来なければ、その世界には加担しない。そして知り得ないものは、知り得ないものとして、通過することができる。

 

幾分気難しくなってしまったが、日々感じることを綴るのみの場として。

 

綴っている間も惜しいくらいに、タスクは膨大だが、人間には隙間時間も必要。院生と社会人を少ししながら、どれだけの研究ができるだろうか、と不安しかないが。選択の連続性に覚悟を決めて。両親は既に呆れているが(名前を難しくし過ぎたことが、原因だと思っている)、私自身ここまで来てしまい、腹を括るしかないかな、と思った。10年前には想像もしなかった世界まで。そしてその方向性を幾ら考えても結果はないことにも。

 

私が、つい弱音を吐いてしまい、「もうダメかもしれないです」と話した矢先、教授からは「もうこのまま進め」と助言。「数年は大変かもしれないけれど、先を考えれば選択は広がる。」

頑張れとは言わない。「進め」と。

 

どうあろうとも、進むことが私には適しているようだ、と何となく思いながら。

このまま隙間時間に綴りながら、生きている限りは、これが運命ではなく、宿命だと思いながら。

 

多忙な日々だが、本棚に目がとまり、

『人間と機械のあいだ』心はどこにあるのか(池上高史+石黒浩 著)をパラっとめくった。手軽さと読みやすさ、人文からのアプローチとは違う感覚に、新鮮さと発見がある。たまにパラっとめくる。その時に目を引いた箇所が、今の自分とリンクする何かがあると、常々思っている。

 

今日の主題から話しが逸れてしまったが、これから様々な感情の連鎖となるだろう。