Who am I ?

Loss of Senses When being

放擲された孤

好きな言葉がある

 

『バガヴァット・ギーター』神に人の苦悩は理解できるのか(赤松明彦 著)に下記内容がある。ガンディー自叙伝から抜粋された箇所である。

 

 

 人間の苦悩とは、本来そうであるべきことが現実にそうでないとの認識のうちに生まれてくるものであろうが、その時「まだない」と考えるか、「もはやない」と考えるかによって、苦悩のあり様も、またその解決方法もずいぶん異なったものになってくる。

 

「まだない」と考えるものは、解決法の実現に向けて行動すればよい、ただそれだけのことである。

 

 

「まだない」ことは先行き不安である一方、「もはやない」場合は喪失であろうか。

喪失については、生けるものに生じる負の感情である。

「まだない」については、溢れるばかりの情報や手立てがある。しかし一方、「もはやない」ことに対し、手立ては少ないように思える。私見だが。「もはやない」とは、放擲された孤、と考える。つまり、見放された、唯一人が抱え込むものへ変遷され、存在自体を脅かすものとなる。なるかどうかは、多様な条件に差異がある為、断言できない。村上春樹の著作を読むと、なぜか後者の状況が垣間見え、最果タヒの詩にも、その含有性を感じとることができる。これも、これも、私見にすぎないけれど。

 

 

唯、かつて友人との話の中で、「村上春樹は孤独を知っているよね」と。

そう、彼の作品、特に初期は、孤独という色が映し出されている。そう思うのは私だけではなかった、と感慨深い。

 

 

最果タヒの作品にも、綺麗なきれいものが打ち壊してしまい、言葉をバラバラにし、意味を崩壊させている。その言葉を言葉遊びのレベルとして表現できる唯一の作家かもしれない。彼女の作品にも、孤独が影を落としていることは、否定できない。

 

 

放擲された孤。世に告ぐ。