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看護者の傷つき
̶「人が死ぬことを考える」から「他者の死に直面すること」がもたらす心的影響の変化̶
1.文学部編入までの経緯
看護師の資格を取得後、大学病院に勤務し、初めての配属先は、CCU1・循環器内科・呼吸器 内科の混合病棟だった。大学病院の看護師は、最先端医療に携わりながら、エビデンスに裏付け された高度な看護能力が要求される立場である。学生までの私は、患者さんの生を支えることに 主眼を置いていた。そのため、死にゆく人に携わり、そして死に直面することは、臨床が初めて だった。
1.1 初めての受け持ち患者さんの自殺企図
看護師も医師と同様に担当患者さん、というシステムがある。入院から退院まで一貫した担当 として関わりも持つ。卒後3ヶ月過ぎた頃に、肺がんの末期である 50 代の男性を受け持つ。入 院当日、緊張する私に向けて「これからよろしく!元気になるからね!」と笑顔で言葉をかけて くれる優しい人柄だった。妻子がおり、働き盛りのサラリーマンであった。その患者さんは自分 が外科的治療の施せない、末期がんである事実を知らなかった。その事実を知っているのは妻子 と医療者だけだ。現在では告知することが殆どだが、その時は家族が未告知を希望すれば、本人 には告知されないまま治療がなされる。そして、抗がん剤治療や放射線治療が始まるが、それは 治るためではなく延命のため治療だ。実際は、死へのカウントダウンだった。日が経つにつれ、 本人が痩せ細り、妻がこっそりと私の前で泣き崩れるようになる。本人の前では気丈に振る舞う 妻だった。知識も技術もない私には、先端医療と看護を駆使できるわけはなく、心にも余裕は全 くなく、患者さんと家族の気持ちを支える重圧を抱えながら病棟に身を置いた。帰宅してからも ナースコールの音の鳴り響きや、患者さんの光景が頭から離れない。朝も早く夜も遅い、夜勤と なれば、一晩中動き続け、自己犠牲を払うような状況だった。ゆっくり食事を摂ることもできな い。休まることもない。勉強することは山ほどある。
余命は⻑くて 1 年。早ければ半年。医師とのカンファレンスでは、侵襲の程度と本人や家族の 現状をよく話し合い、綿密に治療方針を変えていく。徹底した未告知を貫き通さなければならな い現実は辛かった。今でも慣れることはないし、この先も死に慣れることなどできないだろう。 患者さんは、状況が深刻になると大部屋から個室へ移された。それは死期が近いことを示すサイ ンだった。私の担当患者さんも余命1ヶ月には、個室へ移された。
ある夜勤の時だった。私が、受けもち患者さんの個室をラウンドした後に事は起きた。たまた ま先輩がその患者さんの部屋に入ると、患者さんは天井に帯ひもを吊るし、首をくくっていた。 先輩が引きずり下ろしたため一命は取り留めた。その夜勤帯では私の心的負荷を考慮し、先輩が その患者さんを担当することとなった。後の勤務で患者さんが私と会うなり、「もう死ぬんでしょ? 何で生きているの?」と発した。私は返答することができなかった。
1.2 最先端医療の限界
CCU での勤務は、24 時間油断の許さない重篤な循環器疾患の患者さんの集中治療にあたる。そこでの治療は、医師の怒号が飛ぶこともあった。最善を尽くしても死は訪れる。何台もの モニターとモニター音が一気に静かとなり、医師と看護者の間には無言の空間が広がることも あった。時には、患者さんが「殺してくれ!」と叫ぶこともあった。命が途絶えるまで、家族が すすり泣く声を横にしながら、カーテン越しで他患の治療にあたることもあった。憧れた集中治 療室での勤務は想像を絶した。ある時期になると、それなりに仕事はできるようになったが、人 間は無力であるという事実性に苛まれ、一度臨床から離れ文学部への編入を選んだ。
1.3「臨終行儀」における死への態度
文学部編入では、ローズゼミで『往生要集』を読むこととなった。ローズ先生が大学のパンフ レットに掲載されていたのを目にし、興味を持ち選んだ。卒論では、平安時代に念仏結社をつく り、浄土へ往生しようと集まった結社(二十五三昧会)が行う、死への看取り( 臨終行儀)を読む作業を行った。結果としては、普段からの同士との繋がりを大切にすること、 繋がりと支えが人間には必要、との結論を導きだした(卒業後にパンフレットに載りましたが、 そこにも同様なことを書きました)。学部で、私は人の死について考えている、との能動的な取 り組みだけで満足していた。それが一気に崩れるのは精神科での勤務だった。
2.大学院入学までの経緯
精神科領域での勤務を卒後することとなる。『往生要集』を読んだので、心の在り方について 臨床で学んでみたいと考えた。それまでは、身体疾患から二次的に発症する精神疾患しか知らな かった。精神科での治療そのものは全く知らなかった。そこでは、人生の大半を精神科病院で過 ごし、親族と絶縁の人たちと出会う。孤独死のように死んでゆく姿を目のあたりにした。
死を間際とした人々には独特の空気が漂う。臨床ならではの経験かもしれない。死の前兆とも いうべきものだった。それが現在の研究テーマへと繋がっている。学部での研究したことは、孤 独な人生を歩み、一人で死んでゆく人たちには、無意味なものかもしれない、と考えるようになったことも、テーマ変更の要因となる。 急性期病棟では、自傷せずにはいられない彼女たち、過食嘔吐を繰り返す摂食障害の人たち、
自傷他害の危険がある人を保護室に入れ、外部から鍵をかけ、行動制限を行うことしなければな らない。生きる希望を持ちながらも、有望な研究者が自ら縊首したことは、私自身だけでなく、 他の医療者にも傷つきをもたらした。この時、他者の死を自分のことのように考える恐怖に苛ま れた。自殺未遂を繰り返し、企遂してしまった彼自身の苦悩が今もなお焼きついている。
精神科臨床における自殺の問題として、精神科救急に携わる当時の所属先の医師が次の言葉 を残している。「精神科臨床において自殺は否応なしに遭遇する問題であり、慎重な対応に心が けても繰り返し困難に突き当たる出来事である。臨床における自殺・自殺念慮は、唐突に訪れる という困難がある。死を美化したり特別なものとしてとらえる事態、哲学的、文学的な思考と臨 床の実用性の折り合いをつける作業が、ある種の喪の作業になる。」
3.研究課題
現在の課題文献に辿り着くまでに、『バガヴァット・ギーター』のアルジュナによる行為の放擲が影響を及ぼしている。親族を殺さなければならないアルジュナは、クリシュナから行為の結 果を捨て去れ、と命じられるのである。人の死のリミットを決めるということに葛藤していたと いう内容は、インド古典への関心へ導くものとなった。
『チャラカサンヒター』というインド伝統医学文献との出会いは、現役医師が 2000 年代から 取り組んでいたことに由来する。文献の解読箇所はインドヤスターナ、という箇所である。この 箇所は死の前兆を記したものであり、私が読み進めている箇所は、死ぬ前に現れる夢の内容であ る(2018,2019 合同ゼミレジュメ参考)。今後はこの文献の読み進め、心身に起こる死の前兆を サンスクリット文献で読むことである。文献に触れることが、他者の死に直面した私自身の喪の 作業になるのではないか、と考えている。
【キーワード】死, 自殺, 看護師,『往生要集』,『チャラカサンヒター』
2ヶ月前の世界と私。それは虚空。
独り占めの時間、一致しないもの。
結局あれこれ考えていて、眠りにつけずに過ぎ去ってしまった。今日は当直なので、幾分少しまだ余裕がある。サイクルが整わないことは、よくあること。今から休めばいいだけなのだ。朝から休むことも、しばしば。夜の静けさに引き込まれたからね。何事も、それでまあいいのか、と思い込めば、それで良いことになる。睡眠の足りなさは否めないが。お昼から翌日お昼まで勤務。少しくらい、時間を贅沢にしてもよいかな。たまには、わたしの好きなように、時間を独り占めにしたい。言葉と出来事は、必ずしも一致しないから。あらゆる存在するが、そうなのよね。朝から、おやすみなさい。
タイトルのないタイトル
あまりの忙しさに、また自分を置いてしまった。前半期だった。すっかりこの存在を忘れてしまい、急に思い出し、綴っている。と、いうより、アウトすることすら放棄していたので、急に前半期の感情を書かずにいられなかった。時に、ツイッターくらいはした程度。あれはあまり私的感情をだだっと流すのには、抵抗があった。私には紙、という媒体に感情を記せない。ノートに書いてみよう、と思い、たまたまノートを手にしてみたが、全く書ける気にならなかった。なぜか、わからないけど、誰にもみてもらいたくないような、誰かに見てもらいたいような、感情があるのだと思う。今日は、大学にパソコンを置いてきてしまい、スマホで綴っているから、少し不便。目が覚めたけど、前半期の疲れから、まだ、頭がクリアーになれず、あと少しだけ休みたい。それから、今日は向かおう、と思う。忙しくいけなかった場所も幾つかあり、多少のタスクをこなす日でもあるから。急いでも、ダメな時はあるから。
昨日はあまりに疲れ、課題を指導教員に見せたあと、いつもなら、すぐに修正をかけるのだが、それもせずに、久々に学食に寄ってから、大学の片隅で寝てしまった。不眠症の私が、あんなソファーで寝てしまうなんて、、、意識が飛んだ午後だった。同じゼミの子が、遠くから、ドイツに行くのに必要な書類が、って声で目が覚めた。飛び起きるように、ハッと一瞬混乱して覚めた。あんな経験、人生で3回目。まあ、それだけ疲れていたんだな、と意識が戻って、感覚が感覚となった。 まだ綴りたいけど、少し休みたいから。
See you later.
感情を取り戻す作業
結局、夕方から大学に行き勉強しました。
夜はひんやり。静かな学内で、一息つきながらコーヒー片手に少しだけ、ふわっとできました。帰宅してから早く寝よう、と思いきや、余計なことをしていればこんな時間に。そういう時間がなかったので、少しの贅沢な時間です。また明日、いや、今日から、お仕事へ行くので、勉強は一時中断です。早く寝なきゃ。
昨年はひどく心が荒んでいましたが、ようやく感情を取り戻した気がします。何もかも失ってしまった心の崩壊性と時間。大学も後期は行けないほど、心が痛んでいたと思います。いや、そうでした。4月になり、新しい環境、ゼミの皆、友人のおかげで、少しずつ荒んだ心に、感情が戻ってきたと思います。昨年は、辛いとか、そういうものすら感じられなかった。消えてしまいたいと思っていました。全て失いたい、と。誰も信じられない、怖かった。いつも、加藤ミリヤの曲を聴いていました。また彼女の曲からも救われていました。邦楽は殆ど聴かないんですが、昨年から聴くようになりました。
『Lonely Hearts』は好きです。JUJUの『この夜を止めてよ』は、本当に本当に、言葉を失う、感性の中、√citの世界でした。今、少しずつ時間が動き始めたところです。まだ揺れていますけどね。
ありがとう、そして時間、多様性
文献演習以外は、基本PCへ打ち込んでしまうんですけど、講義終わりに一気に今月分が飛んで消えてしまい、パニックになりながら、急いでゼミへ。
終わる頃には、なぜか復旧。文献上、特殊なダウンロードが必要で、先日から色々教えてくれたゼミの皆には感謝。帰り側にもセットアップ+入力までしてもらって、本当にありがたいです。ありがとう、ありがとう。オシャレカフェへいこう約束。唯、皆忙しいよね。私も然り。
大概毎回同じことしか書けませんが、本当に毎日がぐったりです。
まだ課題分、1シュローカーしか訳せていないので、せめて4シュローカーは訳して、レジュメ持参したいので、明日の指導はおやすみにしてもらいました。人それぞれペースがあるようですが、私はやはり全てが自由な時間とはならないので、5月は2週に1度のペース。唯、リミットがないと人間はやらない、その上、絶対に間に合わないので、7月までは何とかざっと読めるように毎週にしたい。あとは体調次第。アスリートと同じですね。いかに万全な身体と精神を維持できるか。どちらも弱いので、本当に苦行に近いです笑
今日は唯一の追われない夜。今朝は4時前には目が覚めて、ざっと勉強してから身支度。実質4時間しか睡眠がとれていないので、今日は早々休んで、また明日朝から勉強へ。縛りがない日くらいは早く休みたいですね。そしてパフォーマンスが高い時に勉強するのが良いです。入力は疲れてもできるので、サンスクリット読解から開始します。英訳は先がいいですが、簡単にざっとだけ。それからローマナイズして、サンディ外して、変化形を考える作業へと移ります。とにかく毎日読みこまないと、進まない。文献取り寄せも、追加であるので、一気に注文しないといけませんが、文献選びも困難極めます。メジャーではないので、これだけでも、相当時間がかかります。海外の先行研究と文献は大変。
平日勉強時間を確保することの困難さ、連休はもちろん仕事なので、本当にそう考えると、僅な時間でも惜しいです。こうして、綴りながら、時間に縛られていることを実感します。
多様性を受け入れることができる余裕が、今はなく、すべてからシャットダウンタウンしたくなる時が多いです。外界と遮断しないと、精神がおちるのです。余裕できる時、すこしは多様な形も見ることができるかもしれません。
そこまでして論文、、、、、、書こう。世界は広がるので。
彼は実績と瞬発力で、幾分自由に見えて、、いや、あれは自由だ。大学も違うので自由な校風もあり、、、、見ていないけど、、、、これくらいに。
院生と社会人の間
外国の文化、ことにインドの文献を読む時、日本の考えは捨てないといけない。スリランカの留学生からレクチャーしてもらいながら、完全に違うと思った。
日本の感覚で、本を読もうが文献を読もうが、理解困難な話しである。
私をつくり上げるもの、その要素があるから、最終的に私がこの肉体を得て、感覚を感覚として認識する。Ayur veda Dictionaryを落としたのでひとまずこれで、用語を理解しないと、全くできない。Apteが使えない世界まできたのか、、と。今週木曜までわずかな中、全力でレジュメ作成。逃げないで。。。。
ゼミの皆が病んでいる理由、よくわかる。唯、皆のおかけで、助けられている。本当に感謝。美味し差し入れ持っていこう。学会出れるまでやり遂げたい。そう思うようになった。腹を括ったから。
しかし、この生活は辛い。辛いを通り越す。この生活はどこに、どう時間をつくり、生きていけばよいのか。とにかく帰宅の途。コーヒー飲んで、一息つこう。
早く寝よう。先週から殆ど寝ていない。今週も同様。
kitaku no to
猛烈に虚脱疲労が襲いかかる。
ようやく帰宅の途に着く。
無目的な日が欲しい。
何しようかな?って。
映画見ようかな、最果タヒ読もうかな、林典子写真展に行きたいな、洋服みたいな、とか、そういう目的性がある無目的。
今はタスクの中にどう必要な事項を埋め込むか、考えながら生きている。
生きている、というより、せねばならない未来と過ぎ去りつつある時間が、私を覆う。
それ以外ない。
なぜか、無性にこのページに来たくなる。
この生活が、そういうもの、と慣れてしまうまでは、時間がかかるだろう。
今も、勢いよくPCに向っている自分をみると、早く寝ればいいのに、と思ってしまう。
生き急がず、ゆっくり過ごせればそれが一番いい。
だけれども、今、この瞬間の連続が、切り開くものとなりうる直感がある。
こういう本能としての直感と、わずかなモラトリアムをやめてしまうことは簡単。
やめてしまうことは既にできない。
選んでしまったから。
流れに逆らわない。
脳が働かず、書いて内容も支離滅裂だろうが、この瞬間、巡り合わせは、今後二度とないだろうから。まだ綴りたいけど、1週間が8日な私には、今日はここまで。
See you !
服装、姿、生き方
ようやく帰宅の途についた。家を出てから、20時間経過。さすがに、多大な荷物とちょっと細身スタイルを選んだせいか、マンションの静かな空間に癒される。基本、黒が好き。今年は、薄いピンクスキニーにトライ。意外といい感じ(自分で言うのも自惚れている)。スラッと決まると、気分が違う。だから暖かい日は好き。体型なんかすぐ変わるから、今のうちだけかもしれないし。これまでは、スカートを履かない日が考えられなかったけど、今はスカートじゃないのもいいかもね、と思える。色々変えていきたいな。髪の毛、茶色も飽きたし、黒髪でもいいかな、とか。だいぶ髪も伸びて、そのままふわゆる、みたいなのもいいかもしれない。それしか楽しいことないからね笑(院と社会人の往復だから)。留学生の不思議な生活や生き方に刺激を受け、キメキメなのは卒業して、誰かの目を気にして、ではなく。自分をデザインすればいいのよ。人の姿は、生き方が出るから。
裏には?!
かわゆす。
休憩。。。
午前終了。これから、夜まで頑張り、、ます。
連日の疲れを甘さに。。。。